♯ ミント


ネクが顔をしかめて立ち止まったので、隣を歩いていたヨシュアもそれにならった。ネクは唇に指で触れて、はなす。指に付いたものを見て表情をくもらせた。

「血だ。切った」
「唇を? 唇を噛む癖はやめた方がいいと思うな」
「そんなクセないし」
「どうだろうね」
「何がだよ」

ネクはヨシュアを睨みつけて指先をなめた。ヨシュアはそうだと呟いてポケットを探りだす。
ネクはヨシュアの表情に不安を覚える。
なんだその顔は。また何たくらんでるんだよ。
何が出てくるかと警戒するが、ヨシュアが取り出したのは小さなスティックだった。

「リップクリーム。使う?」

思いがけず常識的なものが出てきてネクは逆に戸惑う。ヨシュアはリップクリームをひらひらと軽く振ってみせる。

「ネク唇荒れてるんじゃない? 乾燥してるんだよ」
「べ、別に。いいよ。女じゃないし荒れてたって」
「関係ないでしょ。唇だって切ったら痛いんだし。それに僕は唇は荒れてない方が好きだし」
「何の話だよ」

別にお前の意見なんかどうでもいいし、とこぼしたらネク君冷たい、と苦笑いをされた。その笑い方にネクは悪いことをした気になった。
リップクリームなんて女みたいで、でもヨシュアは親切で言ってくれてるわけで。
……って考えるとちょっと気味悪いけど。親切なコイツってなんか不自然。でも親切で言ってくれてるわけで。
ってそういえばなんで持ってるんだ? リップクリームなんて。持ち歩いてるのか? いやでもコイツならありえる。というかコイツだから……

「使う?」

ぐるぐるとどうでもいいことで深みにはまりそうになったネクをヨシュアの声がすくう。ヨシュアは小さなスティックを片手で器用に回して遊んでいる。
ネクは一瞬の思案の後、借りる、とはっきりと言い切った。ヨシュアの口元が緩む。
ネクはリップクリームを受け取ろうと手を差し出したが、ヨシュアはそれに応じなかった。
ヨシュアはリップクリームのキャップを外す。キャップはポケットにしまい、その手でネクのあごをとらえた。

「……え?」
「動かない。口閉じて」

思考が追い付かずネクは言われるがままに口を閉じて、なんとなく姿勢を正してしまう。

「いいこだね」

ヨシュアは満足げに笑みを深めて、リップクリームをネクの唇に塗っていった。
ネクは相変わらずされるがままに呆然としている。
ヨシュアの手から解放されて、ヨシュアがリップクリームのキャップをつけてポケットにしまい終わってようやく、ネクはぱくりと口を動かした。

「な、あ、っ、お前、」
「どうしたの? もしかしてキスしてほしかった?」

そして再び手をのばして近づいてくるヨシュアをネクは容赦なくはたいた。

「ふざけんな馬鹿ヤロウ!」
「ったー。ネク君、僕口の中切ったんだけど」
「知るか馬鹿ヤロウ」
「ひどいなぁ」

ヨシュアは頬を赤く腫らしながらくすくすと笑う。

「女の子みたい」

ネクは後悔する。
そうだ忘れてた。コイツほど親切という言葉が似合わないヤツはいない。
油断した自分が情けなく、そのぶん少しでも感謝したことや少しだが緊張したことが悔しくてならない。
ほんの少しでも動揺してしまったこととか。期待してしまったこととか。
何を期待したのかは考えたくもない。忘れることにする。
何もかも気の迷いで、それが全部コイツの思惑通りならこれ以上つまらないことはない。

「ネク君、おまじないしてよ。イタイのイタイの飛んでいけ、って」
「ひとりでやってろ」
「つれないなぁ」

甘えた声を出すヨシュアを視界から追い出して、ネクは無意識に唇をなめる。
それは舌先にミントの味を残した。ネクは手のひらで転がされていることを、意識しては憂鬱になった。


*****
予告どおり。
相変わらずぐだぐだでも、そんなヨシュネクが好みなようです。

(冬場の乾燥にはご用心!)



070911










♯ 期待値


重たい瞼を無理矢理押し上げると、薄明るい空間に迎えられた。
自分は誰でここはどこなのか。とっさにわからなくなってパニックを起こしそうになる。心拍が不規則に早まる。
俺は、
ここは。

「ネク君」

そばに近付いてきた影がかがんだ。ひたりと冷たい手で額にふれられる。
はっきりとした声で呼ばれ、心臓がもとのリズムを取り戻した。
現実が帰ってくる。
そうして落ち着いてみればここは、なんてことない、シブヤ駅のガード下だった。ガタンガタンと騒音がとどく。でも、しばらく聞いてると薄れていく。俺は壁によりかかって、地面にじかに座り込んでいる。
ふれられている額と背中が気持ちいい。
逆に全身が汗でぬれていて気持ち悪い。

「俺、」
「良かった」
「え?」
「死んじゃったかと思った」

言葉の響きにぞくりとした。立ち上がろうとした体が重くてかなわなかった。目だけを動かせばとなりにヨシュアが膝をついているのが見える。その、俺の額にのばされている、手。

「手、冷たい」
「ネク君が熱いんだよ」

喉に引っかかってかすれた声に、怒ったように返される。ヨシュアにしては珍しく真面目な顔をしていて俺は、いつもの嘘くさい笑い顔よりは、今の方が好きだと思った。いつもこんな顔してれば、いらつくことも少ないと思う。
額から手のひらが離れていく。
体に力が入らない。

「俺は……」
「コレ、飲んで。少しずつね」

差し出されるプラスチックカップはたぶんファストフード店によくあるやつだ。なんとか受け取ろうと腕をのばすが、全身が重くてだるくてしかたない。力が入らない。
カップを落としそうになった俺にため息をつくように笑って、ヨシュアは俺を手で制した。いいよ、とヨシュアはカップを持ち直して、ささったストローを口元に寄せてくる。

「飲んで」

喉は、別に渇いてない。
けれど、実際にいわれるままに一口飲むと、止まらなかった。思うように体を動かせないから一気には飲めなかったが、俺は必死にカップの中の液体を喉に流し込む。冷たさが滑り落ちていく。確かに、俺のほうが熱いのかもしれない。他の全てが冷たく感じるから。
カップの中身はオレンジジュースだった。俺はコーラの方をよく買うけど、今は炭酸じゃない方がありがたい。
飲んでいるうちに汗が背中を伝って、冷たい壁に背中を押し付ける。
呼吸が楽になった気がした。
ストローから口をはなして息をつく。
ヨシュアは少しだけ残ったジュースを飲んだ。そしてストローをくわえたまましゃべるから、少し声がこもっている。
それでもヨシュアの声は、不思議と透って聞こえてくる。

「熱中症だよ。ほんと、ネク君馬鹿だよね。倒れるまで気付かないなんて」
「倒れたのか?」
「倒れたよ。ほんと、」

ヨシュアがストローをはなして俺を見た。ストローの先がつぶれていた。
ヨシュアの深いような目に覗き込まれる。

「死んじゃったかと思った」

ぞくり、と鳥肌。
今度は上ずった声。

「でもさ、」

そこでどうしてそんなことを思ったのか、自分でも良くわからない。
もしかすると、再びわきあがった寒気のような感覚を、振り払いたかったのかもしれない。
考えるよりも先に口走っていた。

「俺は死なない」

ぴくり、とヨシュアの体がこわばり、肩がはねた。俺を覗き込んでいた目がじわりと見開かれ、それから細められて、口の端が吊り上る。
返ってきたヨシュアの声は、泣いているように静かだった。
押し殺されたように、静かだった。

「何言ってるの。だってネク君、もう死んでるじゃない」
「お前は違うんだよな」
「そうだよ。僕はネク君とはちがう」
「でも、死んだのかと思ったって、それお前が言ったんだ」
「そうだね」
「……心配、したのか?」
「……そうかもね」
「お前が俺を殺したのに?」

間があった。ヨシュアはうつむいていた。
今まで気にならなかった電車の音がやたら大きく響く。
轟音が走り去る。
紛れるように、間違えようもないヨシュアの声が落とされる。

「そうかもしれないね」

そうしてヨシュアはゆっくりと顔を上げようとしていた。
顔を上げて、俺を見ようとしている。
次に向けられるのは、きっといつもの嘘めいた笑いだ。
それでも俺は、違う表情を期待した。
無表情でも何でもいい。真面目な顔でも、たとえ怒っていても。
傷付いた顔ならもっといいと、期待しながらヨシュアを見ていた。


*
宇田川町その後。

*****
難しさを切実に感じます。
もどかしさとか。

書く事は好きだけど表現することは難しい。



070920