♯ 大きな子供
ときたま線になったり点になったりを繰り返して落ちてくる滴ばかりを見ている。
窓際のこの席は優雅だ。なにが優雅かというと、自分の姿が映り込まないことが。硝子は外の景色だけを映す。滴は止まず固い道の上で跳ねている。水は逃げ場をなくして溜る一方で、通行人が煩わしそうに踏み散らしていく。もはや避けようのないくらい、滴は溜って跳ねて忙しく波紋を繋げている。
蒸気の音がする。コーヒーの匂いがする。香ばしく焼ける菓子の匂いも。
カウンターの向こうで働く人を想像しただけで僕は振り返らなかった。
窓の外を人が歩く。それを眺めるだけでうとうとと眠気は生まれてくる。
店内の暖気と窓際の寒さがぶつかってここは心地良い。
そのとき目に入った自分の掌が大きいことに絶望に似た感情を抱いて、僕はコーヒーの準備がじきに終わることを知りながら、頬杖をやめてのろりとテーブルに腕を組んで頭をのせる。
光を遮断。
すると音が全てになる。
音は脳内で増幅されて脚色されて、フィルムのように像を結ぶ。
目を閉じたところで映像は止まない。
脳内では先ほどまで見ていた外の景色ではなく、カウンターの向こうにいるはずの羽狛さんの動きを追っている。
そうして僕は今まで夢で見た気がするものを、全て気のせいだということにして忘れようとしていた。
「ほうら、お待たせしました」
かた、と音を立てた白いカップを、テーブルにふしたまま横目で眺めた。
ゆらりゆらりと湯気がのぼる。
羽狛さんは僕の隣の椅子をひいて座り、もうひとつのカップを手に香りを楽しんでいる。
僕はそれを眺めたまま、動けないでいた。
しばらくそのまま、時間が流れる。
店の隅でカラフルに光が瞬いている。
クリスマスだから、と羽狛さんが飾ったツリーだ。
季節感よりも、この店の客入りについてもっと考えた方がいいんじゃないのかな、と思いながら僕はそれを羽狛さんに言わない。
羽狛さんはこの店が、無人であることを望んでいるようにも見えるからだ。
そしてその無人の店で、こうしてぼうっとするのが僕は好きだったりする。
この店は、ここがシブヤであることを忘れてしまうくらいに、静かだ。
だから僕は、違うことを口にする。
「ねえ、羽狛さん?」
うん? と羽狛さんはサングラスの奥の目を少し大きくして、おどけようにこちらを見てくる。
だから僕もふざるように笑って、続きを言う。
「羽狛さんは、もしも僕が、わがままを言ったら叶えてくれる?」
「さあ。そのわがままとやらを聞いてみてからじゃないと返事は出来ませんね。それ以前に、あなたはわがままばかりですし」
「なんだい、失礼だね」
「じゃあこんなところで油売ってないでちゃんと仕事してください」
「羽狛さんがいっしょじゃなきゃやだ」
「ほら、それがわがままって言うんですよ」
羽狛さんは、困ったように眉をおとして笑っていた。
「彼、……ネクがらみのことでしょう?」
実際に羽狛さんに名前を言われた瞬間、心臓がどうしようもなく跳ねた。
笑みが凍るのを、ふざけているような雰囲気が崩れてしまうのを隠せなかった。
だから次にどうしたらいいのかわからなくなる。
どうしようもなくなって、思考が真っ白に塗りつぶされてしまう。
隠せない。
羽狛さんは困ったように、それでも笑っている。
「言ってみな」
ぽん、ぽん、とやさしく、頭をなでられた。
頭の上に乗せられた掌はあたたかくて、僕はこの人の前で自分を誤魔化すことが馬鹿馬鹿しくなる。
自分で自分を誤魔化すことが嫌になる。
だから、言った。
忘れようとしたことを。
「ネク君に、あいたいな」
ぽん、ぽんと適当なリズムをつけて羽狛さんは僕の頭を撫でている。
僕はそれを振り払えずに、ただぼんやりと窓の外の滴に逃避する。
またしばらく、そのまま時間が流れる。
今度その沈黙を先に破るのは、羽狛さんの方だった。
「まったく。大きくなっても、子供のような方ですね」
「うるさいよ」
「本当のことでしょう? なんだかまるで、今のあなたはサンタクロースなんかいないと言われてふてくされている子供のようです」
「うるさいな」
大体何でそこでサンタクロースなのさ、と問えばもうじきクリスマスですからね、と羽狛さんは瞬くツリーを視線で示して答える。
「言うんじゃなかった」
僕は勢いをつけて体を起こして掌から逃れる。
側に置かれたカップを手に取ると、適度に冷めていて飲みやすいコーヒーが出来上がっていた。
僕は一気にその半分くらいを飲み干す。
じっとりと横目で睨みつけてやると、やれやれ、といったようなジェスチャーで羽狛さんが肩をすくめる。
立ち上がって僕よりも高い視点から、やさしく笑った。
「じゃあ、サンタクロースはいるってことを、証明して差し上げましょうか?」
「……え?」
羽狛さんが、何を言っているのかわからなかった。
ぽかんと、自分でも思うけど馬鹿みたいにただ羽狛さんを見つめる僕に、羽狛さんは首の後ろをかいて苦笑した。
「言っておきますが、これっきりですよ」
私が手を貸すのは、一度だけですよ、と羽狛さんは言う。
僕は信じられない思いで頷いた。
「それではまた明日、ここに来て下さい」
僕はただぽかんと、それはそれは優雅に礼をしてみせる羽狛さんを見つめることしか出来なかった。
*
聖夜の前夜。
*****
サンタクロースは本当にいますか?
0712224
♯ プレゼント
言われた通り店に行くと、さっそく羽狛さんにバッジを押し付けられた。
それから約束をさせられる。
曰く、低位同調を絶対にしないこと。
バッジを絶対に外さないこと。
ネク君に正体を明かさないこと。
要は今日一日、僕は“桐生義弥”もしくは“ヨシュア”ではない、別の人物として過ごせということらしい。
ネク君に伝えてあるという嘘の名前を覚えさせられる。
口の中で転がしてみると、どうしても違和感がある。馴染みのない名前。
僕はまた、ネク君に嘘を吐かなければいけないようだ。
「言ってみると、今日はお忍びなんですからね。くれぐれも宜しくお願いしますよ特に約束の一と二と三」
「羽狛さん、それ、全部じゃない」
「あれ、バレました?」
羽狛さんはからからと笑う。つられて僕も、なんとなく気が楽になった。
嘘でも何でもいい。
一日だけでも会えるなら、僕は、その幸運に感謝しよう。
「羽狛さん」
「なんですかい?」
ちょいちょい、と手招いてジェスチャーをすると、羽狛さんは望みどおり顔を寄せて耳を貸してくれた。
別に隠すようなことでもないんだけど、誰が聞いてるわけでもないけどそれでもなんとなく僕は、声をひそめてこっそりと羽狛さんに耳打ちする。
「ありがとね」
ぱっと羽狛さんは飛び退くように離れて驚いた顔で僕を見た。
「……なに」
「いや……」
羽狛さんは口元を押さえて他所を見ながら何か呟いていたが、また僕を見て、小さく笑った。
「今日はやたらと素直なんですね」
ぽんぽん、と昨日してくれたように、少し乱暴な手つきで頭をなでてくる。
子供扱いはやめてよね、と掌を押しのければ、子供ですよと諭される。
「いつまでも、子供みたいな方ですからね」
「ちょっと、もしかしなくても馬鹿にしてる?」
「でも、子供じゃないとサンタさんからプレゼントはもらえないんですよ」
羽狛さんは僕が上着の裾につけたバッジを指でつついて笑う。
「クリスマスプレゼントですから。ほんと、大事にしてくださいよ?」
赤地に緑のラインで、何か幾何学的な模様がわざと中心をずらして描かれたバッジだった。
なるほど、言われてみれば、クリスマスカラーを意識してるのは明らかだ。
「そのバッジがあれば、同調しなくてもこの階層に存在することが出来ます。干渉することもされることも。ですからくれぐれも同調はしないでくださいね。正体は明かさないでくださいね」
「はいはい、わかったわかった」
わざとらしく肩をすくめて見せると、羽狛さんは安心したように頷いた。
「では、参りましょうか」
羽狛さんは僕に背を向けて、両手で店の扉を開け放った。
羽狛さんに連れて行かれたのはハチ公前だった。
そこに彼がいた。
変わらない。
最後に見たときと、何も変わらないネク君がいた。
「よう、ネク」
「こんにちわー」
僕はしばらく呆然と立ちすくんでしまった。
幸い、ネク君は羽狛さんを何かを話していて、不審がられることもなかった。
変わらない。
あんなに会いたいと思っていた人が今目の前にいる。
なんだか信じられない気持ちで僕はネク君を見つめる。
唯一変わっているのは、特徴的な青いヘッドフォンだった。
パートナーだった頃はかたくなにまるで周りの何もかもを拒絶するように着けていたヘッドフォンを今、ネク君は外してただ首にかけているだけだ。
それだけの変化なのに、どうしてだかネク君が途方もなく遠く感じた。
「で、そっちの人が?」
ひょい、とネク君も僕を見た。
羽狛さんに軽く腕を叩かれてはっとして、僕はふわりと笑いかける。
「はじめまして。――――です」
「えっと、桜庭音繰です。はじめまして」
よそよそしい挨拶に胸が痛んだ。
それでも、差し出した手を握り返してきた小さなてのひらは、あたたかかった。
痛みを伴う幸福感を喉元で押しとどめて、僕は目を細めてゆるく笑う。
「今日は、よろしくね、……」
ネク君のことをどう呼んだらいいのか分からなくて、結局僕はそれしか言えなかった。
以前仕事いっしょになった知り合いで、今日は羽狛さんがシブヤを案内するという約束だった。
けれど羽狛さんは、今日は急な仕事が入ってしまった。
かといってせっかく時間をとってくれたのだし、ぜひ僕にシブヤの街を見ていって欲しい。
「だからかわりに俺が、あなたの案内をしてくれないかって」
そういう話になっているらしい。
羽狛さんからは僕のことをどう聞いてる? と羽狛さんが帰ってすぐに聞いてみたら、そんな答えが返ってきた。
なんていうか、微妙な理由だと思う。
しかしネク君はさほど疑問を抱いてないらしい。まあ、好都合なわけだが。
「だから今日一日、俺が渋谷を案内します。どこか行きたいところとか見てみたいものとかありますか?」
「うーん、そうだね……」
どうやら僕はシブヤに初めて来た、という設定らしいのだが、あいにくシブヤのことなら知り尽くしている。とくに行きたいところも見たいものもない、というのが本音だ。どう答えたものか、悩む。
考え込む僕をじっとネク君が見ている。
なんかそう見られると緊張するんだけど。
僕はただ、ネク君といられればそれだけで十分なのだ。
でもどうせだから、と、僕は思いついたことを口にする。
「あいにく僕は、本当にこの街のこと何も知らないんだ。だから、君のオススメの場所とか、好きなところに連れて行って欲しいな」
実際に僕は、ネク君の連れて行ってくれる場所ならどこでも楽しいのだと思う。
すると今度はネク君が考え込んでしまう番で、うーん、と腕を組んでしまう。
うっすらとよった眉間のしわがおもしろくて僕はくすりと笑う。
ネク君はぱっと僕を見た。
「うん? どうしたの?」
「え? あ、いや、何でも……」
もごもごとネク君は何か呟いている。僕には聞き取れない。
やがてネク君はまた僕をまっすぐに見上げて言う。
「それじゃあ、とりあえず昼メシ食べませんか? 食べながらどこがいいか考えます」
「うん、じゃあそうしようか」
ラーメンでいいですか、オススメの店があるんですけど、と言うから、もちろん僕は頷く。
だいたいネク君がどこに行くつもりなのか僕はわかっている。きっといつもの道玄坂のお店だ。
でも僕は、初めて歩く道のようにネク君の後についてスクランブル交差点を横断する。
あの頃と同じように僕らは歩く。
ただ違うのは、僕の名前と君の敬語。
ヘッドフォンの位置と視線の高さ。
さみしいようなうれしいような、くるしいような楽しいような。曖昧さを噛み締めながら、僕は小さな背中についていく。
いろいろなところに行った。
渋急本店で服も見たし、モルコの大会もちょっとのぞいてきた。
AMXでCDを聞いたりしたし、ヘッズでパーティグッズを冷やかしたりもした。
そして最後は、予想通り壁グラだった。
ネク君は得意げに壁グラについて話してくれる。
そこには年相応の、子供らしい無邪気さがあって僕も楽しくなる。
「素敵なグラフィティだね」
「ですよね!」
ネク君は、笑う。無邪気に。
そして壁グラを熱心に見つめている。
僕はそんなネク君を見つめている。
夕日がグラフィティを赤く染めている。
ふたつの影が平行に長く細く伸びている。
今日が、終わってしまう。
唐突に儚い気持ちになる。
今日は、楽しかった。幸せだった。
ずっとずっと、思っていた人が望んでいた距離にいて、笑っている。
ずっと欲しかった時間だった。
幸せだった。
そんな一日が、やっぱり、終わる。
「ネク君」
呼んでみたくて、呼んだ。
あの時のように。
同じ温度で、声音で、リズムで。
気持ちで。
「あ、」
ネク君はぱっと振り返った。驚いた顔でこっちを見ている。
見開かれた目に、僕のほうが驚いてしまう。
「え?」
居心地の悪いような間があった。
ネク君は表情を、ちょっと怒ったようなものに変えた。
「その呼び方、」
「え、何、どうしたの?」
僕はとりあえず笑ってみて、首を傾げてみる。
ネク君は難しい顔をしている。
ちょっと眉間にしわがよってて、やっぱりそれは少しおかしかった。
「あなた、やっぱり似てます」
「え?」
「知り合い、……友達に」
誰のことを言ってるのだろう。
心拍が早まる。緊張、している。
答えはわかってるのに、認められなくて。
だって違っていたら怖いから。
とぼけて、でも無視しきれなくって、聞く。
「誰に?」
ネク君は静かに笑った。
「ヨシュア」
ざくりと胸が痛んだ。
ネク君が僕の名前を言ったことに、泣きたいほどの痛みを覚えた。
「勝手なヤツなんです。勝手に人のこと振り回して、それっきりで。待ち合わせの場所にもいつまでも来ないで、」
自嘲するように俯いて、呟く。
「俺だけいつまでも待ちぼうけで、ほんと、馬鹿みたいだ」
僕は、何も言えない。
でも、何か言わなきゃいけない気がして、言いたいことがあるはずで、必死に考える。
「僕たちは、きっと、」
ゆるりとネク君が顔を上げた。視線が合う。
言葉が喉につっかえて、息苦しい気さえする。
緊張している。
馬鹿みたいなのはきっと、僕も同じだ。
「僕たちはきっと、また、あえるよ」
ネク君は不思議そうな顔をしている。
当たり前だ。ネク君にとっては僕は、あくまでも羽狛さんの知り合いであってネク君の知らない人間だ。
わかってる。今日はそういう約束で、僕はここにいてネク君といっしょに一日を過ごした。
でも僕は、“ヨシュア”なんだ。
ネク君のパートナーだった、“ヨシュア”だ。
「そればずっと先のことかも知れない。でも、必ず、ネク君が忘れないでいてくれる限り、僕らはまた、あえるよ」
願うような祈るような気持ちだった。
「あえるから」
僕は膝をついて、目線をネク君に合わせる。
首から提げていたネックレスを外してネク君んてのひらに握らせる。確かガティートのだったけな。わりと気に入ってたものだ。ヘッドは鍵の形をしている。
気に入ってるんだけど、ネク君にあげるよ。
「これ。今日は、ありがとう。つまんないものだけど、お礼」
「え? でも、」
「もらってほしいんだ」
鍵はきっとお守りになる。
だから再会を約束しよう。
「もらってくれる?」
ネク君はしばらく何かを考え込んでいたけれども、やがて一度頷いた。
僕は微笑んで立ち上がる。
「今日は本当にありがとう。楽しかったよ」
駅までは一人で行けるから、ここでさよならしようと僕は言う。
ネク君はまたしばらく考え込んでから、一度頷いた。
「あの、」
ネク君に背を向けた僕に、声が投げられる。
半身振り返り、僕はなんだいと応える。
「ヨシュアって友達がいるんです。俺と同じくらいの身長で、生意気で偉そうなそうなヤツ。もしもあなたがどこかで見かけたら、そのときは伝えてもらえませんか?」
「何て?」
ネク君は夕日を浴びて、壁グラに細く長い影を伸ばして、それこそ生意気そうに笑った。
「俺はお前を許してない。だから、一発くらいなぐられに来い、って」
あはは、と僕は声を立てて笑った。
「そんな物騒なことを言われてくる人はいないんじゃないのかな」
「じゃあ、一発殴らせたら許してやる、も付け加えておいてください」
「わかったよ」
ひらりと手を振って今度こそ僕はネク君から遠ざかる。
ネク君はずっと僕の背中が見えなくなるまでそこにいてくれるような気がした。
もしくはそれは、ただの僕の願望なんだけど。
「僕たちはきっと、また、あえるよ」
根拠なんてない。でも、そうであればいいと思わずにはいられない。
最高の一日だった。楽しかった。幸せだった。
そんな一日が、やっぱり終わる、けれど。
明日から僕たちは、また別々の日常を過ごしていくんだけど。
「きっとまた、いつか、あえるよ」
そうしてちらりと振り返った僕の影も、夕日の中で細く長く伸びていた。
ゆらりゆらりと揺れていた。
*
聖夜当日!
*****
人の望みのよろこびを。
071225