♯ 沈む街


意識の浮上は突然だった。何か、わからないけれど、何か、に手をひかれるような心地でふわりと目を開いた。
飛び込んできた色彩は、透きとおり揺らぐあおいろだった。
見上げる。空は、遠い。
むしろそれは空と呼べるのかも怪しかった。
水面だ。思った途端、それが正解だと理解する。
はるか遠い頭上に水面がある。それはゆらりゆらりと光っている。
綺麗だな、と思って、きょとんと首を傾げた。
ここは、どこだ。
ここは。ネクは軽く目を伏せ記憶を検索する。足元にはコンクリート。周囲に人はいない。
世界を満たしているのは、不思議なことに空気ではなく水のようだった。光を泳がせて気ままにたゆたう。しかし、呼吸はできる。苦しくはない。
ためしに口から息を吐いてみる。気泡は、生まれなかった。
では世界を満たすあおいろはただの錯覚かというとそうではないらしい。よくわからない。法則がむちゃくちゃだった。空はない。水面が揺れる。呼吸は可能。気泡は生まれない。
浮遊感はある。コンクリートを蹴って、腕を動かせば空気のかわりに存在するこの水をかいて泳いでいける気がする。そう、遥か頭上の水面まで。
でも、コンクリートを蹴ってみても何にもならない。体は重力に束縛されている。体は浮かばない。
ネクは首を傾げて、ここはどこかと思索する。
シブヤだ。シブヤのはずだ。人はいないが、けれどもここはスクランブル交差点。
夢かな、と思う。何かの夢だろうか。そのわりには、ままならないことが多すぎるけれど。

「あれ? どうして起きてるの?」

声に振り返れば、そこにはヨシュアがいた。口元を片手で覆っている。何事かを考えているようだった。
夢かな、とネクは思う。こんな不思議な世界にこいつと二人か。
いろいろとままならないな、と思いながら、嫌な気はしなかった。
ひとりの方が良かったかな、とは思ったが、それだけだ。数歩ヨシュアに近寄る。

「ここどこだ」
「シブヤだよ」
「じゃあこのあおは? 水か?」
「ブー」
「はあ?」
「不正解。これは、ただの僕のイメージだよ」

水なわけないでしょう。そうしたら息できないじゃない。ネク君なんてすぐに死んじゃうよ。ほんと、ネク君は鋭いんだか鈍いんだかわかんないね。

「夢だろ。これ。ただの、俺の」

ネクは不機嫌に返す。
ヨシュアはへらりと笑って見せた。

「本当はネク君は眠ってるはずだったんだよ。そういう時間なんだ。これは、そうだね、退屈な僕のただの戯れなんだ」

ほんと、どうして君がここにいるんだろうね。

「いちゃ悪いかよ」
「いやいや、そんなことは言ってないよ。うん、ひとりよりは全然いいかな。むしろうれしいよ。だってネク君といっしょだものね」
「どういう意味だよ」
「ふふふ、わかってるくせに」

そのままの意味だよ。
ヨシュアは謎かけでもするみたいに笑ってネクを見る。
ネクはわざとらしく大きなため息をついてみせた。ぐるり、と世界を見渡す。

「これは、ただの僕のイメージだよ。水に沈んだ街みたいできれいでしょう? 世界の終わりはこんなんがいいかな、って。人間なんか一人も残ってないんだ。綺麗なものでしょう?」
「いい趣味してるよな」
「ほめてる?」

けなしてる。言おうとして、やっぱりやめた。

「ほめてる」

ヨシュアが意外そうに眉をあげて、それからまた笑った。

「へえ?」
「俺も、世界の終わりなら人間なんていなくていいと思ってる」
「僕たちって似てる、そうは思わない?」
「思う」
「じゃあ、もうちょっと仲良くしてくれてもいいんじゃないの」
「それは断る」
「イジワルだね」
「かもな」

素直な言葉ばかり吐いている。
どうせこれは夢なのだから、言いたいことを言うのがいい気がしている。
ネクはあまり考えずに会話をしている。

「それにしても、ネク君が起きちゃうなんてね。指揮者の管理責任かな。それとも、僕の加減が下手だったのかな。やだなぁ、ちょっと落ち込むかも」
「何の話だ?」
「なんでもないよ」

ヨシュアは大きく腕を開いて、世界を指し示す。目を細くして、優雅に口元がつりあがる。
得意げに笑って、腕を広げて水面を見上げ、くるりと回って背中を向ける。

「ここはね、僕の世界なんだ。僕のイメージで構築されている。これも僕の能力だよ。まあ、ノイズ潰しには使えないけれどね。綺麗なもんでしょう? ここまで作り込むのは結構大変なんだから」

そのヨシュアの背中に、ネクは翼を見た気がした。
誘われるように焦りに突き動かされてネクはヨシュアの腕をつかむ。
ヨシュアは無防備に振り返り、不思議そうにネクを見つめ返す。

「どうかした?」
「飛んで行く気がして、」
「え?」
「お前が、いなくなる気がした」

くすり、ヨシュアは笑う。

「何それ」

ネクは笑えなかった。

「お前は、いつかいなくなる気がする。俺の前から。いつか」

ヨシュアの瞳に覗き込まれている。
いつの間にか立場が逆転している。
腕をつかんでいるのはネクの方なのに、ネクは、その紫の瞳に取り込まれる。
息さえつめて、ヨシュアを見返すことしかできない。
ヨシュアの薄い唇が動く。

「ネク君は、その方がいいんじゃないの」

ヨシュアの瞳が黙り込む。それは、今まで見たこともないような色をたたえている。
シブヤの街も今だけは沈黙して、今まで見たこともない色に沈んでいる。
すなわちあおいろ。
沈んでしまった世界の終わりにコイツとふたり。
夢だとしたらままならない。
けれど悪い気は不思議としないのだ。
ネクは口を開く。

「俺はこのままがいいよ」

ヨシュアの瞳が揺らいでにじんだ。気がした。
ヨシュアは笑おうとして、失敗したように中途半端な表情をして、それからネクの手を解いて握り直した。
掌で、掌を包む。
一歩近付き、ヨシュアは額をネクの肩に乗せた。
ネクは動かず、肩に重みと体温を感じて、掌を握り返す。
そっと水面を見上げる。
ゆらゆらと揺らいで、それはさっきのヨシュアの瞳を思い出させた。

「夢かな」

ヨシュアが呟く。

「やっぱりこれ、夢かもね。だって、ネク君が、僕の欲しい言葉ばかりくれるんだもの」
「夢かもな」
「うん。でも、だったら僕もずっとこの世界がいいなぁ」
「でも、夢だからそのうち醒めるだろ」
「そうだねえ……夢、だもんね」

世界はあおく沈み人の気配はない。
ネクはその色を閉じ込めるように、肩と掌にヨシュアを感じながら、そっと目を閉じた。

世界はあおいろに沈んでいる。



*
あお。

*****
最近うるうさんの書くヨシュアが弱いです。
む、強気の彼が好きなはずなんだけどなぁ。
公式のイラスト見ると彼強気というか嫌な感じの笑いばっか浮かべてる気がします。
もしくは無表情?
弱い彼も嫌いではなく、むしろ完璧そうに見えてちゃんと弱みもあったりする方が人間めいてて好みです。

ところでそれよりも、ヨシュアは天使なのかそうじゃないのか……悩みます(悶々)。


071118










♯ 不解


「自分に殺されるのなら何も怖くないし、貴方に殺されるなら、怖がることなど何もない」

そう、奇妙に言い切って。
手首を。



熱を持った肺に空気が絡んで胸を圧迫していた。
痙攣が喉を塞ぎ息を詰まらせる。
ネクは自分がまるで笑い転げるように泣き出したいのだと理解する。
何で俺が泣かなきゃいけないんだと、喘ぐように自責した。
上手くものが考えられない脆弱な頭で、それでもヨシュアをなじり、とっさにその手首を掴んだ。
細く綺麗な手首だった。

「うあ、」

ぬめる嫌な粘性に、思わず間の抜けた声で立ち尽くす。
それを聞いてようやく、ヨシュアは人形のように端正な無表情を崩して微笑んだ。
ネクは背筋を這った寒気を押し留めて、手首を掴む力を強くする。

「変なの、ネク君。どうしてネク君がそんな顔をするのさ」

変なの。可笑しそうにヨシュアは繰り返す。
苛立つ思考の片隅に、混乱する自分と冷静な自分が混在している。
掴んだ手首は綺麗に白くて、だからこそどうしようもなくあかいろが映えていた。

「どうして、こんなことしたんだよ」

その問い掛けは、ヨシュアの望むものではなかったようだった。

「別に。ネク君には関係ないでしょ」

ヨシュアは途端に無表情を纏い、聞いたことのないほどの冷たい声を出した。

「まあ、あれか。僕が消えるとネク君も消滅だもんね。道連れは困るよね」

違う、とネクは言いたかった。
違う。

「俺が言いたいのは、そんなことじゃない……っ」

今確かに触れているはずのヨシュアが、途方もなく遠く感じる。
こんな近いのに、言葉がすれちがっていく気がして、悔しかった。
肺で蹲っていた熱は、いつの間にか視界をゆるませている。

「実験だよ」

幾度かの瞬きで輪郭を取り戻した世界の中で、ヨシュアもいつの間にか、どこまでも優しげなやわらかい微笑みを浮かべている。

「人と人はわかりあうことは出来ない、っていうことの証明さ。だってこの傷も痛みも、僕のもの。僕だけのもので、ネク君には何ら関係のないことでしょう」

ひらりとヨシュアはネクの腕を払った。
白い掌を伝ってあかいろが軌跡を描いた。ひたひたと中指の先から雫は堕とされる。撒き散らされて地面に染みる。
ネクは顔を歪めて、べたりとあかい掌を、どうすることも出来ずに持て余した。
ヨシュアは何事もなく笑っている。

「ね? ネク君はなんともないでしょ。わかるでしょ。所詮僕たちは別々の人間で、共有できるものなんてないんだ、って」
「でも、」
「うん?」
「でも、俺は、」

痛い。
俯いて呟いた言葉は低く掠れていた。

お前のその傷を見ると、俺も痛いよ。

「……ふぅん」

ヨシュアが、溜め息のように不機嫌な呟きをこぼした。
恐る恐るネクは視線を上げる。
浮かべているのは無表情だというネクの予想を裏切って、ヨシュアは、ただ、困ったように目を細めているだけだった。

「嘘だ、……って、言ってやりたいところなんだけどね、」

その声に先ほどまでの厳しさはない。
ただ頼りなく、消えてしまいそうな儚さで続きを告げられる。

「……そういうことも、あるかもね」

それからヨシュアは、今度は冗談でも言うような気安さで笑って、あかく白い手を差し出した。

「“自分に殺されるのなら”、」
「え?」

にっこりと、屈託なく微笑む。

「“自分に殺されるのなら何も怖くないし、貴方に殺されるなら、怖がることなど何もない”」

そう奇妙に言い切って、手首を差し出したままにやりとネクを見る。

「昔観た芝居の科白だよ。そうだね、これが本当かどうか、試してみたかった、ってことにしておこうか。この傷は」
「何言ってんだよ」
「そうだ、せっかくなんだしさ、ネク君も僕のこと殺してみてよ。本当に怖くないのかな?」
「ふざけんな」
「ふざけてなんかいないよ。本気だよ?」
「余計性質が悪い」

差し出された手を取る。ふさがらない傷から、生暖かいあかはこぼれ続ける。
応急手当なんて知らず、ネクは何も出来ずにとりあえず傷口を強く押さえ込む。
これ以上あかがこぼされるのは見ていられなかった。
痛いよとヨシュアが微笑むから、こっちの科白だと返す。
そのまま手を引いて歩き出す。

「どこ行くの?」
「羽狛さんとこ。俺じゃどうしたらいいかわからない」
「えー、嫌だよ。僕が怒られるよ」
「当たり前だ!」

ちょっとは怒られておけ、とネクは思う。
未だに思考の一部は熱く、泣き出す気配に耐えていた。

きっと自分は、ヨシュアが感じてない分の痛みを勝手に拾っていて、だからこんなに痛いのだ。

鼻の奥を痛くする感情をそう解釈して、ネクは掴んだ手を意識する。
冷たい手だった。
生温くぬめる感触に、まだ熱は冷めそうになかった。


*
あか。

*****
このままの調子でくろ、しろと突き進みたい。
出来る限り年内に。



071219