♯ 波紋(ネクとヨシュア)
聴覚を塗りつぶすように鳴き続ける音がする。
それは昼過ぎから降り出した雨だった。たった一枚の硝子に遮られる水滴のせめてもの抵抗、もしくは抗議かもしれない。などと、益体もないことを考えて、ヨシュアは目頭を強めに押して長く息を吐きだした。
雨の日はどうもいけない。気圧のせいか湿度のせいか調子が悪い。
密度の高い空気がどうにも苦手だった。絡みつくように粘性を帯びて、まるでプールにでも溺れている心地で廊下を歩く。掌を当ててみた窓は冷たくて少し曇った。
ここは羽狛のカフェだ。奥の部屋で、これからの予定について羽狛と話をした。
聞かせるわけにもいかないから、ネクは店のほうに置いてきた。
羽狛と奥の部屋に行く時に、ネクにものすごく不機嫌に睨まれたことを思い出してヨシュアは小さく笑う。仲間外れが嫌だったのか自分が羽狛と二人になったのが嫌だったのか。
多分後者だ。
本当にあの子供は、CATと、そして羽狛のことが好きでいけない。
くすぐったい感覚の奥にヨシュアは重たく沈むものを見つける。違和に笑みは止まる。
窓にかすかに映り込む自分は見たくなくて、ヨシュアは店へと続くドアを開く。
帰ってくるとそこには、テーブルに突っぷしているネクがいた。退屈だったのか、どうやら眠っているらしい。
ヨシュアはネクに近付いた。出されたコーヒーはまだ半分残り、白いカップの中で冷めている。右腕をたたみ左腕を投げ出し、その投げ出した方の腕に頭をのせて、頭を横に向けている。
規則正しい呼吸に合わせて肩がわずかに上下している。
瞼は閉じられて動かない。
ヨシュアはふと、誘われるように手をのばした。髪にふれて頭をなでる。頬に爪を滑らせる。
何も考えられないまま息を止めて、その頬に唇を寄せた。限りなく薄い何かを隔てたようなキスをする。
それは唇で触れるだけの行為だった。
雨音が一瞬遠ざかる。
そして一瞬の後にヨシュアは、溺れる心地で一歩退いた。ひゅ、と息を吸い込んで、早めの心音を意識する。
足元がふいに曖昧になる。
今、僕は、
何を、
「――……うん、」
縫い止められた視線の先でネクが身じろぐ。ゆっくりと、瞼が動く。
遅れて体が起こされて、ネクははっきりとヨシュアを見る。
「ヨシュア?」
呼ばれてもヨシュアは振り向けなかった。
ただ息が苦しい気がして、この場所では呼吸がうまくできなくて。
ここに居たくなくて。
水をかくようにもどかしい足取りで、外へ。
ぐらぐらと揺れる視界の中を、外へ。
「おい!」
走る。
今僕は何を思った。今僕は何をした。
今僕が抱いている、この感情はなんだ。
感情が暴走する。思考が侵食される。不規則な心拍が痛い。呼吸が下手で苦しい。
気持ちが悪い。
これは何だ。これは何だ。
彼は何者だ。
彼はただのコマだ。僕の用意したゲームのコマ。それ以上でも以下でもない。
確かに興味はあった。前から気にはなっていた。
でもそれは単にゲームのコマとしてだ。僕の代理人としてふさわしいか否か。興味は評価でしかない。他の感情を差し込む余地もなく。
それ以上でも以下でもない。僕と彼の関係なんてそんなものだ。
そうでしょう?
だけど、――
アスファルトの上には行き場を失くした水が点々と溜まっている。
そのひとつで足を滑らせて、倒れる寸前でヨシュアは手の届いた壁に強くもたれかかる。
衝撃に暴れる思考が止まる。呆然として、現状の把握に努める。
そうやって気がついてみれば、ずぶぬれの自分がそこにいた。見上げた空から絶えない滴。うつむく足元には跳ねる滴。
全身は熱く、冷めそうにない。
「――は、はは」
喉が引きつって音を立てた。笑う。笑うしかなくて、笑う。
なんて滑稽。なんて様だ。馬鹿じゃないのか。
最近何かが変だ。
ネクと、彼といるようになってから、何かがおかしい。
ようやくヨシュアは、ひとつの事実を受け入れることにする。
僕は彼に依存している、という事実を受け入れる。
けれどそれを、許すことはできないのだ。
一人の人間に執着するなんて。
依存している? そんなこと。
こんな自分は、自分じゃない。
かかわりなんていらない。つながりなんかいらない。
あいつらと自分は違う。違うのだ。
自分は力を持っている。自分は選ばれた人間だ。自分には使命がある。それは自分にしか出来ないことだ。自分はそのために選ばれたんだ。
一人の人間に執着しているなんて、依存しているなんて、そんなこと。
ヨシュアはひとつの事実を認めて、けれど、それを許すことはできない。
こんな感情は自身を弱くする。それなら、すぐに切り捨ててしまえばいい。
切り捨ててしまわなければいけない。
簡単なことだ。今までだって何度か繰り返してきた。捨ててしまえばいい。忘れてしまえばいい。
簡単なことだ。それだけだ。
それで自分は楽になれる。
それだけなのに。
ふと、全身を叩いていた雨が、止んだ。
ヨシュアは緩慢な動作で上を見て、うつむいて、そして彼を見た。
ネクがいた。わかっていたことだけれど、ネクがいた。
ネクはヨシュアにカサを差し出している。怒っているみたい、とヨシュアはどうでもよく思う。
ずぶぬれなのにね。
ぼんやりと思う。
僕はもう、ずぶぬれなのにね。いまさらカサなんて、意味ないのにね。
ネクはもう一本カサを持っているくせにさしてはいない。開かれたカサはひとつだけで、それはヨシュアに差し出されている。だからネクも、ヨシュアの目の前でずぶぬれになっていく。
なんて馬鹿なんだろう、とヨシュアは思う。
ネクが無感動な、それでいてどこか悲しそうな、何かに耐えているような顔をしている。
ヨシュアも同じ表情で、しかしそれには気付けない。
ゆっくりと、ネクは告げる。
ヨシュアは重く沈むものを必死に胸におしとどめている。
「……帰るぞ」
「何処に?」
ああ、なんで、君は。
(僕を放っておいてくれないの)(本当は僕が憎いんでしょう)(どうせ信じていないくせに)(どうしてそんなにかきまわしてくる)(そんな無自覚な優しさ、痛いだけだよ)(もう止めてよ、もう止めようよ)(苦しい)
苦しい?
「帰ろう」
差し出されたカサの上で雨は唄っている。きっと生温く冷たい雨。ネクはぬれたまま立ちつくしている。
ヨシュアは目を閉じて、音を聞く。
言葉を反芻する。
帰ろう。
まるで何か、祈りのような響きだ。
と、その時だけは感じた。
「仕方ないね」
呟いて、ヨシュアはカサを取った。
少しだけ表情をゆるめてネクの手がはなれていく。
受け取るときに触れた指先は冷たかった。その温度にヨシュアは口付た頬を思い出す。
ネクはもう一本のカサを、今度は自分自身のために開く。
雨の唄が重なり合う。
君は、いらない。
君は僕を弱くする。これ以上いっしょにいると、きっとはなれられなくなる。
弱い僕は、僕じゃない。
だから、いらない。
君なんて。
だけど。
「帰ろう」
繰り返される祈りの気配に微笑んで見せる。
ずぶぬれのヨシュアはずぶぬれのネクと、カサを並べて歩き出す。
今だけは、あともう少し。
このゲームが終わるまでは。
(どうかここにいて)
薄明るい雲から雨は絶えない。
アスファルトの上で波紋を四方に渡らせて、ふたつのカサの上で、静かに確かに唄い続ける。
*****
言い訳はいっぱいあるけど、ありすぎて言えない。我慢する。
と、とりあえずヨシュアの性格がおかしい気がする件ついて。
しかしこんなに長く書けた作品でこうなのだから、私の中のヨシュア像はこうなのかもしれないと開き直ってみることにします。
***
このお話は、『月の光採掘場』という素敵サイトの『帰る場所』というイラストをイメージしてたりイメージしてたり……。
の、わりには、その魅力の一割も表現できてないのです。
イラストの方が何十倍も何百倍も素敵なのです!!
ぜひ見ていただいきたいです。
最初にイラストを見たときの感動というか、衝撃というか、そういうものはとにかく強烈でした。
波紋とか距離とか。私も雨は好きです。うまく表現できなくてもどかしいけど。
最後に、書いていいですか!? という不躾な私のお願いにいいですよと言ってくださった暦夜紫月様に限りない感謝を。
どうもありがとうございました!
071020