♯ ブルーデイズ(ネクと羽狛)
(どっかの平行世界)


コーヒーの香りであの人を思い出す。ペンキの匂いで、あの人のことを連想する。



決して奢ってくれようとはしない。別にいいけど。勧めてくるわりに金はとる。
別にいいけど。

「物事には代償ってのが必ずあるわけだ。例えば奢ってもらったら感謝するようにな。奢ってやってもいいけどさ、俺は別にお前に感謝してほしいわけじゃないし」
「……へぇ」

熱さで舌がぴりぴりとやけるような感触を楽しんで、話半分にあの人の言葉を聞いていた。たまにあの人は、わかりにくい話をする。

「俺は別に、何をしてもらわなくても、いつでも羽狛さんに感謝してるよ」

舌先の温度に集中して、出来るだけ何も考えないようにして言った。真剣に言ったら恥ずかしすぎる。できるだけ、何ともないように。
その時のあの人の顔を忘れない。
大人が照れ臭そうに笑うのを初めて見た。

「そりゃ、どーも」
「ん」

白いカップを傾ける。お前はまだ子どもなんだと言い聞かせるように、苦い。



休日に突然呼び出されて、メンドくさいと思う余裕もないくらいの勢いで指定の場所を目指す。
目の前で塗り替えられていく色彩に呼吸も忘れそうになる。
息を殺して、じっと、見つめる。
それだけで精一杯だ。

「次。そっちの、赤いスプレー」
「はい」

背伸びして、脚立の上のあの人にスプレー缶を渡す。あの人は正面を睨んだまま見もせずに缶を受け取って、三回、ふってから塗料を吹き付ける。
新しく描かれる線が線以上の意味を持つ。新しい世界を描き出す。
休日の昼間。不思議とこの周辺に人は来ない。

「そっち、青いのと黒いの。次、ペンキ」
「はい」

敷かれたブルーシートが目に眩しい。ペンキがたれて本当に鮮やかだ。
ペンキをあの人に手渡してから、上を見上げた。
空だって、どうしようもなく目に染みる、青。



いつものカフェは暗く沈んでただの背景に溶け込んでいる。
今まで自分の生活の舞台の一部であった場所が、そんな風にしてただ静かにたたずんでいるのを、見る。
悲しくはない。さみしくはない。
ただ、伝え損なった、ありがとうだけが静かに静かに降り積もる。

また会えるよな。

突然にいなくなってしまったあの人を思い出す。これは別れではないと、確信する理由はまだ知らない。
再会は願わない。だってこれは確定事項。
俺はあの人と、いつかどこかでまた出会う。
この確信は愚かだろうか。わからない。ただ、決して強がりではなく、そう思うことが自分にとってしごく当然なことだという安心が胸にある。
さよならは言わない。ありがとうを思う。
そうやって見上げる空は、いつかみたく、青く。


*****



080611










♯ 忘れないで想いだして(ヨシュアと羽狛)


できる限り全てのものを救いたいと思っていたし、自分にはできる、と信じていた。
初めはうまくいっていたけれども、どうしても、いろいろなものが僕の手のひらから零れ落ちていく。
まるで水でも掬うような作業だった。僕の手のひらはいつだってどうしたって小さくて、小さすぎて、いろいろなところからいろいろなものが、滑り落ち零れ落ちすり抜けていく。
死神ゲーム、というものを考案した。幸い部下にも恵まれていたと思う。ゲームは順調に機能していた。
それでもやっぱり、いつかは許容を越えていく。
いろいろなものが再びこぼれだす。

「それは、仕方のないことなんですよ」
「うん」
「どうしたって、届かない物事って言うものは生じる。逆に言えば、だからこそ我々のような存在があるんです」
「うん」

入れてもらったコーヒーのカップを両手のひらで包んで、その表面の揺らぎを見つめる。そうしていると僕はうつむいているようで、対面に座る羽狛さんにまるで叱られてうなだれている子供だった。
子供扱いは嫌いじゃない。
駄々をこねるような気持ちで、素直に心に浮かぶ言葉をすくう。

「でもね、僕は完璧がほしいんだよ」

見てないけれどもため息を吐く音で、羽狛さんが軽く目を閉じたであろうことが予想できた。

「俺はね、あんたのそういう姿勢を見てると不安になりますよ」

貪欲なのは悪いことじゃないんですけどね、と、独り言のようなものが落とされる。
僕はうつむいたまま視線を上げない。



羽狛さんは羽狛さんで、僕は僕だ。
どうしたってどこまでも違っていて、それは立ち位置とか役割とか、そんな表面的なものではなくて根本に根付いている存在理由そのものだったりする。
僕は渋谷の街が大事だけれども、羽狛さんはそうじゃない。
羽狛さんは僕の心配をするけれども、僕が求めているのはそういうことじゃない。
どこまで行っても平行線なのだと思う。平行線どころかどんどんどんどん離れていってる気がする。それならばきっと過去のどこかで交わっているはずなんだけど、きっとそれは昔のこと過ぎて、もう二度と、僕らがわかりあうこともないような気もする。
羽狛さんはどこまでも天使で、僕はどこまでもコンポーザーだ。
僕らはお互いにこれ以外の身の振り方をきっと知らない。



「中途半端すぎて、悲劇にも喜劇にもならないや」
「はい?」
「なんでもなーい」

ようやく生温くさめてきたコーヒーを一口含む。鼻の奥に通る香りが気持ちを落ち着けてくれる、そんな錯覚。

「例えば友達になるよりも、恋人になるほうが簡単なのかもね」

カップに口をつめたまま、ちょっとこもったような声で、上目に見上げて言ってみたら、羽狛さんは目元をゆるめてやれやれとため息をこぼした。
その反応に同じことを羽狛さんも思っていたのだと知って、初めて、うれしくなる。

「だって友愛には尊敬が必要だけど、恋愛は、盲目でも成り立つものね」
「俺はそんなのごめんですけどね」
「僕もだよ」

生温いコーヒーが、そして羽狛さんとの会話が、このときばかりは確かに精神安定剤だった。
きっと数ヵ月後には忘れてしまう程度の、うれしい思い出だった。


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配布:アマデウス

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羽狛さんとヨシュアはそこそこ仲が悪いのではないか。
となんとなく思い始めました。
仲が悪いというか、根底で認識が微妙ずつずれてて、そのズレのせいでどんなに親しくしていても屈託があるというか。
何かを牽制しあっているような。



080706