♯ 裏側の人影(ヨシュアと羽狛)
つい最近の出来事を、遠い昔のことのように思い出す。
瞼の裏で、彼が泣いた。
殺気をこめて僕を見た。
それでも彼は、僕を撃たない。
どうやら僕はまた死に損なったみたいだ。
顔にかぶせた本の隙間から光。そして、人の声。
しきりに僕を呼んでいる。
声の主はどうやら僕に起きて、そして早く仕事をするようにと急かしているようだ。
眠ったふりを続けようとしたが、声の主はしつこかった。困っているのかもしれない。
僕は仕方なく、本をどかして体を起こした。
「もう少し放っておいてくれてもいいでしょ? 僕だっていい加減疲れてるんだから」
声の主はやはりというか、羽狛さんだった。
まあここは羽狛さんの店であり仕事場であるのだから、それ以外にはありえないのだけど。
僕が嫌みのひとつでも吐いてやろうと軽く睨んだら、なぜだか羽狛さんはうろたえたようだった。
僕は不可解に眉をよせる。これくらい、羽狛さんならいつもの底の見えない笑みで流すはずだ。
羽狛さんの表情には驚きもある。
羽狛さんは気まずげに僕を視界から外して、口元を隠すように手をそえた。
「そのー、なんだ?」
「なに」
返す声音が自然と不機嫌になってしまう。
羽狛さんは、うー、とか、あー、とか言っていたが、やがてあきらめたのか、苦く笑った。
「泣いてるんですか?」
予想もしない言葉になんとなくぼんやりとしてしまう。
「誰が」
やっぱり羽狛さんは苦笑している。
「お前のことだよ」
「嘘」
「じゃあ、それは?」
手で示されたところにふれて、指先を生温いものがぬらした。
ああ、と思いがけずつまらなそうな声が出た。
「違うよ。――僕じゃない」
「は?」
違うよ。違うんだ、羽狛さん。
泣いているのは僕じゃない。
「ネク君だ」
瞼の裏に焼きついた、彼が今でも泣いている。
手の届かない遠い場所で。
同じ場面ばかりがエンドレスリピート。
まわりまわって、そして、そのまま。
「なるほどね」
羽狛さんは真面目な顔で頷いている。
僕は乱暴に頬をこする。涙が乾いてわずかひきつる感覚が残る。
ため息をつく。
羽狛さんがやさしく僕を見ている。
「会いに行ったらどうですか? 不可能ではないんでしょう」
「まさか」
僕はそのやさしさを一蹴する。
猛烈にひとりになりたくなって、僕はまたソファーに寝転がって目を閉じる。
甘い言葉は受け入れられない。
それはボクの望みに近かったからなおさらだ。
そんな甘えを、僕は僕に許せない。
目の前にいる人影を、突き飛ばすつもりで言い放つ。
「次に彼に会うのはきっと、僕が死んだ時だよ」
沈黙。
やがて踵を返す音。ドアを開ける音。
閉まる音の前にまた、声。
「あんたは絶対、長生きしますよ」
知ってる。
唇だけ動かした。羽狛さんがそれに気付いたかはわからない。
部屋にはまた僕だけになる。
沈黙が心地良い。
いつの間にかうとうとと、眠気が思考を鈍らせていく。
突き飛ばした、目の前の人影は誰だったのか。
羽狛さんか。それとも。
答えが出ないまま、僕はゆっくりと眠りにおちていく。
せめて夢の中でその誰かに会えたら、その時こそは謝ってあげても良いかななんて思いながら。
どうせまた、夢なんて見ないだろうと思いながら。
いつものように。
*
エンディングその後。
目が醒めてもひとり。
*****
(ヨシュアと羽狛といいつつ結局ヨシュネクでした)
(まるで詐欺のよう)
070919
♯ 甘くない話(ヨシュアと羽狛)
カウンター越しで対面する。普段どおりの挨拶から始まり、いつも通りの注文を受ける。
珈琲の香り。甘く苦く。揺らぐ蒸気。
微笑む口元。
生まれる談笑。
刺さるように飛んでくる視線はそ知らぬ振りで受け流す。
受け流せているつもりでいた。
それでも当たり障りのない会話の中に、不機嫌と緊張が混じり始める。
「そんなことはどうでもいいんだよ」
何の話をしていたのかを忘れた。
彼はイスを蹴倒した。乱暴な音が店内に響いた。
他に客がいないのをこれほど恨むこともない。
小さな体で、敏捷に、行儀悪く膝をついてカウンターの上に乗り、そして伸びてきた手が襟を掴んだ。
細い腕のどこにそんな力があったのか。一気に目前まで引き寄せられた。
拭いていたコップが手のひらを滑り落ちた。足元であっけなく砕ける気配がした。
破片が跳ねて、素足を掠めた。
微かに痛んだ。
「ねえ、僕の言いたいことはわかるんでしょう?」
酷薄に微笑む唇が喉元に噛み付いた。
舌先が唇を舐める。
吐息が混ざる。
この口付けに甘えてしまってはいけない。
この口付けに溺れてはいけないのだと思う。
天使は気高く平等だ。自分の弱さを知りながらそれでも愚直に歩き続ける歩く人間に対し。
コンポーザーだって同じだ。
気まぐれに平等、残酷に気高く。
この口付けに甘えてはいけない。
この口付けは特別でもなんでもない。
「どうしたの? 羽狛さん。少し顔が赤いんじゃない?」
「ご冗談を」
敬語は戒め。慇懃は線引き。
これ以上何も奪わないで欲しい。
差し出せるものは何もない。
「ねぇ、僕、羽狛さんがほしいなぁ」
ご冗談を。
かすれる言葉。さらわれる拒絶。
与えられる温もりに呼吸を奪われ、心の一部が死んでいく。
差し入れられる舌先。抉るように深く深く。
それでも甘く感じるのは、きっと脳が麻痺しているから。
子供の顔で大人の狡さで笑われる。
なんて淫らなのだろう。
なんて尊いのだろう。
何で自分だったのだろう。
「望み通りには出来ませんよ」
「愚問だなぁ。当たり前じゃない。だって羽狛さんは、僕の望みを知らないでしょう?」
最初から期待なんかしてないよ。
それでも羽狛さんがいいんだよ。
羽狛さんならなんでもいい。
慈悲だろうか。同情だろうか。
許されることに安らぐ必要はどこに。
許されることを辛く感じる理由はどこに。
笑われるたびに愚かになる。鼓膜から始まり神経が脳が麻痺していく。
カウンターを飛び越える覚悟はまだ今日も持てない。
大人になった自分は、どこまでも臆病で保守的だ。
子供になった彼は悠然と立ち上がり傲慢に見下ろす。
彼の前には自分が必死になって築いた境界なんて意味をなさない。
ただ微笑んで、無造作にカウンターを蹴って飛ぶ。
抱き留めなくては危ないだろう。
足元には硝子の欠片が光っている。
「僕から逃げようなんて、思わないでね」
耳元で囁かれる言葉に目を瞑る。
この命令に背くことは堕天に値するだろうか。
盲目に従うことが最良の選択だろうか。
他に道は残されないのだろうか。
どうだろうか。
与えられる温もりに縋れば楽になるから、今はそれで良しとした。
こうして自分はずるずると、心の一部を殺していく。
死んだ気になり、彼を大切に抱きしめている。
*
全ていつか壊れる。
自分は、きっとそれが怖いのだ。
*****
羽狛さん誕生日+ホワイトデー。
のはずだったのに。
それにしてはなんというか。
バレンタインに対してタイトルをつけたのも要因の一部。
080318